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記事: 1494年6月7日:トルデシリャス条約

1494年6月7日:トルデシリャス条約

1494年6月7日:トルデシリャス条約 - Histoires de Parfums

分かち合う世界:

15世紀、ヨーロッパの列強が争いを繰り広げていた時代、ポルトガル王国は西方への海洋探検に乗り出し、カーボベルデに到達しました。また、インドへの航路を求めて、アフリカ沿岸を南下しました。

これらの探検は教皇権力の資金援助を受けていました。教皇は1481年に教皇勅書「アエテルニ・レギス」を発布。この法的文書によって、ポルトガルには発見したすべての領土を領有する権利が認められ、その権利に異議を唱えようとする王国は破門の危険にさらされました。

この探検を受け、当時もう一つの海洋大国であったカスティーリャ(スペイン)は、インドへの航路を求めて西方の探検に乗り出しました。クリストファー・コロンブス率いるカスティーリャの探検隊はカリブ海を発見してスペインに帰還し、新領土に対する先占権を主張しました。

カスティーリャの国王夫妻はコロンブスを支持し、この問題を教皇アレクサンデル6世ボルジアに持ち込みました。スペイン系であった教皇はカスティーリャ側に立ち、旧教皇勅書を廃止して「インテル・カエテラ」に置き換えました。この新たな勅書はスペインに大きく有利な内容で、アゾレス諸島の西100レグアに位置するすべての土地に対する主権をスペインに認めるものでした。

 

一方には公平でも、すべての国に公平とは言えない妥協 

ポルトガル王ジョアン2世は、この新たな境界線に大いに不満を抱きました。ポルトガルの探検家が活動できるアフリカ沿岸の土地がわずかしか残されていないことに、強く抗議しました。スペインとポルトガルの緊張を解決するには、戦争しかないように思われました。

両王国は、イベリア半島で戦争になれば双方が弱体化し、他のヨーロッパ列強を利するだけだと理解していたため、交渉による解決を選びました。1494年6月7日、両国は合意に達し、トルデシリャス条約に署名しました。南北の軸を両極間に引いた線を目安に、世界をスペインとポルトガルで分割することを決めたのです。 

アゾレス諸島の西370レグアを超えるすべての領土は、スペインに割り当てられました。当時の測量方式に基づくこの新たな分割により、南アメリカ大陸の東端はポルトガル領となりました。1500年4月22日、ポルトガル人はブラジルに到着し、今日、南米20か国のうちスペイン語ではなくポルトガル語を公用語とする唯一の国となる地に拠点を築きました。

 

台頭する他の王国の力には抗えなかった条約

ヨーロッパの王国が勢力を拡大し続けるなか、海にも目を向け始めました。そして、アメリカ大陸という金鉱を統治しきれず、スペイン王国が衰退していく様子を目の当たりにしました。 

フランス王フランソワ1世は、トルデシリャス条約に不満を述べ、「太陽は私にも他の者たちと同じように輝いている。世界を分け合う権利から私を除外するアダムの遺言の条項を、ぜひ見せてもらいたいものだ」
と主張しました。フランス国王は教皇クレメンス7世から、より寛容な内容の条約解釈を取り付けました。教皇は、この取り決めが発見済みの領土にのみ適用され、将来発見される地域には及ばないと認めたのです。こうして1534年、フランスの船乗りたちが冒険へと出航しました。その翌年、ジャック・カルティエがカナダを発見しました。

スペインとポルトガルは、自国の領域とみなす海域に他国が乗り出すことに激しく反対しましたが、受け入れざるを得ませんでした。長らく両国に有利に働いてきたトルデシリャス条約は、少しずつ効力を失い、17世紀前半には消滅しました。

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