1889年10月6日:ムーラン・ルージュ
誕生の経緯
ムーラン・ルージュは、フランス史における特別な時代「ベル・エポック」のさなかに誕生しました。フランス社会全体の工業化によって、気楽さや楽観主義、より良い暮らしへの希望が広がった時代です。社会の壁は薄れ、ブルジョワたちは首都の貧しい地区に足を運びました。大衆文化が脚光を浴び、街が拡大するなかでも、モンマルトル地区には村のような気風が残り、誰もがパーティーを楽しみにやって来ました。
こうした特別な背景のもと、パリで初めてのキャバレーが登場しました。1889年10月6日、シャルル・ジドラーとジョゼフ・オレールの主導により、ムーラン・ルージュが開業します。この興行界の二人は、オランピア(1893年)の創設者でもあります。
瞬く間に大成功
オープニングの夜から、成功は確かなものとなりました。 ブランシュ広場には、新たなパリの娯楽スポットを見ようと大勢の人々が押し寄せます。ショーは舞台だけでなく客席でも繰り広げられ、パリ中の人々が集い、踊り、陽気に気ままなひとときを楽しみました。
ムーラン・ルージュの名声を確かなものにしたのは、トゥールーズ=ロートレックのポスターでした。
当時大流行していた日本美術に着想を得た芸術潮流、ジャポニスムの面影を宿すそれらのポスターは大きな反響を呼び、ムーラン・ルージュの名をヨーロッパ中に広めました。
この成功はその後も続きます。1900年の万国博覧会では、世界中の人々がムーラン・ルージュのダンサーたちのショーに押し寄せ、名高いカンカンに魅了されました。
1907年、ある「ミスタンゲット」が初めて舞台に登場します。彼女はその人柄と、歯に衣着せぬ見事な受け答えによって、翌年には一躍スターとなりました。
ミスタンゲットの時代
1915年、ムーラン・ルージュは火災で焼失しました。再建工事が始まったのは、第一次世界大戦終結から3年後の1921年のことでした。
1925年、ミスタンゲットはムーラン・ルージュの芸術監督に共同で就任しました。彼女が手がけた1925年の「ラ・ルヴュ・ミスタンゲット」と、1926年の名作「セ・パリ」は、キャバレーの黄金時代を象徴し、今なおこの場所と切り離せない存在です。
1929年にミスタンゲットが去ると、ムーラン・ルージュは徐々に活気を失い、ついには1930年代後半、超モダンなナイトクラブへと姿を変えました。1940年から1945年にかけて、第二次世界大戦中のパリ占領により衰退はさらに深刻化し、 華やかな宴の時代は終わりを告げました。
1950年代、復活の時
1951年、ジョルジュ・フランスがムーラン・ルージュを買収し、キャバレーに往年の輝きを取り戻すことを目指して、大規模な改修に着手しました。ジョルジュ・フランスの取り組みは実を結び、ムーラン・ルージュは年を追うごとに成功を取り戻していきます。
1955年には厨房が設けられ、「ディナーショー」が始まりました。たちまちパリの夜の定番となります。舞台では、名を成したアーティストや、後に大成するアーティストたちが次々と出演しました。シャルル・トレネ、シャルル・アズナヴール、リーヌ・ルノー、ブールヴィル、ロジェ・ピエール……
世界最大のキャバレー
1962年、キャバレーの歴史に新たな転機が訪れます。ジャッキー・クレリコが経営を引き継いだのです。大規模な増築や装飾工事が行われ、ムーラン・ルージュは創業当初の華やかさを取り戻しました。
1988年2月12日、まさに頂点を迎えます。世界のショービジネス界の大物や各国の王族がヨーロッパ中から集まり、「百周年記念レビュー」を鑑賞しました。このショーは、その後10年にわたって観客から喝采を浴び続けました。
今日もなお、モンマルトルの丘のふもとで、ムーラン・ルージュはその翼でブランシュ広場を照らし出します。夜になると広場は赤く染まり、世界最大のキャバレーだけが知る、魔法のような夜を彩ります。


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